■一番(芭蕉さんターン)
半径二十八寸余り
これはもう、原曲の85センチをそのまま使わせてもらいました。
芭蕉さんの身長がわかれば、そこから平均値で考えたかったんですけどね。
でも後で調べたところ、「寸」という表記は明治時代かららしいですねorz
すみません…ちゃんと調べてから歌詞を作れということですね、わかりまry
今から一歩踏み出すので
「東北の旅」の一歩か、それとも「二人の関係」の一歩か。
あなたを喪っても私は詠う
ここの「あなた」は、芭蕉さんに俳句を教えたあの方です。
彼を喪って放浪の旅を続けていたという事で。
苦難の相次ぐ旅ですが見守っていてください
これも同じく、あの方へ向けて。
■二番(曽良君ターン)
独りでいるのは慣れています
これはもう、半分くらいは私の捏造設定から。
『旅ノ師弟』での二人の出逢い設定が、自分の中の蕎麦の基本なので。
何故僕を選んだか それを訊くのは
「旅の同行者」という意味です。
実際、何度も疑問に思いはしたけれど、芭蕉さんの事なので自分が納得できる答えは寄越さないだろうな、と諦めて「野暮なのでしょう」と。
■最後(二人のターン)
「どうでしょう?」「昔の自分が見たら褒めてくれるかな?」
ここは、お互いに問い掛けるイメージ。
曽良君は芭蕉さんの過去を知らないし、芭蕉さんも曽良君の過去を知らない。
それでも他愛のない話のように言葉を投げ掛ける。
両手を広げて駆け出してこの世界感じる
芭蕉さんのターン。
世界は本当に広くて、ちっぽけな自分ではその全てを知る事は叶わないけれど、曽良君がいるから、何となくそんな夢みたいな事も出来るような気がする……という感じで。
笑わないで、は、どちらかと言えば、馬鹿にしないでね、という意味合い。
半径二十五寸余りがこの手の届く距離
表向きは曽良君のターン。
距離が短くなったのは、「曽良君が伸ばす必要がなくなった」から。
つまり、「芭蕉さんとの距離が近付いている」という事で。
二人旅で、ゆっくりゆっくりと、心の距離が埋まっていく。
以下、ちょっと死ネタでの解釈(反転で)。
伸ばせなくなった三寸。
もう、腕にそこまで力が残っていないという事。
それを埋めてくれたのは、自分を抱き締めてくれた弟子。
(この辺りのイメージは、学パロ一話の冒頭とか、オンリーで出した蕎麦本のあれとかで)
「いつの日か眠りゆくその時」は、この世界とお別れする時。
その時も傍にいるのは。
……簡単に纏めると、こんな感じです。
どこまでも 細道師弟に 夢を見る
はづき
回せなくてサーセンorz
と言うか、曽良君のトレスも入れたら良かったなーと後悔したので、別の場所でやってきましたww
やっぱり俳句の神様には気付いてもらえなかったか(笑)。さりげなく存在してます。
マーフィー君のあれ、反対なんですよね。
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